富山県版Vol.22
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ひ村にやって来た少年先生刀利の聖人となる南砺市の最南部、福光の町から約15キロ離れた小矢部川上流の山奥に刀利ダムがあります。今から約60年前、その湖底に深く沈んでしまった谷に、刀利の村がありました。山奥にあったその村には学校がなく、明治25年(一八九二)から義務教育が免除されていたのですが、村人たちの懇願によって明治34年に分教場が開かれました。そこに教員として初めてやって来たのが、福光高等小学校を卒業したばかりで当時なみぐんこんがんぶんきょうじょうして生まれた兵蔵は、幼い頃かいて育ち、学校から帰ると米つきや蕎麦播きなど様々な手伝いをする〝かたい(真面目な)〟子で、とても勤勉でした。し、掃除の仕方を教え、一人ひ明治20年(一八八七)、西礪波郡綱掛村(現南砺市福光地区)の農家に六人兄弟の次男とら善性寺(蓮如寺)の読経を聞分教場が開校しても、黒板や机がなく、兵蔵は子供たちが持ってきた板きれで手づくりとりの手足を洗ってやり、子には学用品を買ってきて与えました。「刀利住民はすべて子ども・家族」つなかけむらぜんしょうじにょじどっきょうにしちくおんきゆいいつたのわたふとみやまと宣言し、兵蔵は惜しみなく自費を投じ、オルガン、謄写版(印刷機)、蓄音機、ラジオ、テレビなどを購入し、学校と村民とのつながりも強くしていきました。毎日、6キロの危険な山道を歩いて通っていた兵蔵でしたが、明治44年に新校舎が完成し、宿直室を住まいとしました。また、学校に稚蚕共同飼育場を設置し、現金収入の道となる地域産業を支援しました。兵蔵の唯一の愉しみだったと言われるのが刀利の気象観測。長きに亘って続けてきた功績により、大日本気象学会より表彰されます(大正14年)。さらに太美山農業補習学校助教諭を兼務し、道路の改修、植林、木炭の改良を目的とした刀利土工森とうしゃばんちさんかっすい(監修富山近代史研究会 林組合を設立しました。昭和26年(一九五一)、「山崎先生教育50年の記念祝賀会」が行なわれ、同年9月、富山県を視察した天野貞祐文部大臣は、兵蔵を「日本の*ペスタロッチ」と称しました。昭和29年(一九五四)に着手された刀利ダムの建設には多くの村民が反対しましたが、「洪水や渇水に悩まされてきた川下の人びとの幸せのために」と説得したのが兵蔵でした。崇高な教育精神を貫き、「親子、兄弟のように住み着いたこの地、刀利は極楽だった」と、廃村を惜しんだと伝えられる山崎兵蔵先生。刀利ダムの湖畔には、先生の恩愛を受けた人たちによって胸像が建てられ、今もなお、湖底に沈む刀利の村を見つめています。     そば ま なんと  とおれん りうとやまざきうぞうょ  あまのていゆうかわしもすうこうつらぬ藤城純子)刀利の村を愛した聖なる教育者兵蔵を知ってますか?山崎在りし日の山崎先生と分教場の児童たち貧しい家庭の*ペスタロッチ(ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ) … スイスの教育実践家。孤児や貧しい家の子供のための学校を建て教育に献身。近代教育の父、教育実践の聖者としてその名をとどめる。15歳の山崎兵蔵でした。山崎 兵蔵(1887−1963)写真提供 : 刀利会 谷中 定吉氏15

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