【合併号】富山県版 Vol.23&PROCEED Vol.07
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いってきしずく幼少期に育った信仰心北海道で「一滴の雫」となる女子教育の先駆者となる愛と奉仕の精神を貫いた北海道女子教育の先駆者牧野キクを知ってますか?つと明治、大正、昭和、平成にわたる百年の人生を生き抜き、北海道で女子教育に生涯を捧げた富山県人がいます。明治28年(一八九五)4月、富山市越前町で生まれた牧野キクの生家は洋服・雑貨を商っており、熱心な仏教信徒で毎朝のお勤めを欠かさず、「お寺さんのお嬢様みたい」と言われて育ちました。一方で登山を愛好した両親から、「物事を忍耐強く進めること。指導者のいうことをよく学ぶこと。頂上を極めるまでの努力の大切さ」を教え込まれました。附属小学校、富山県高等女学校を卒業したキクは、一九一二年、共立女子職業学校に進学。卒業後は、ささふちあきなしはん教諭となりました。まに生きられることが幸せだ」と喜ぶ姿に強く心を打たれました。そして、一九一七年1月の真冬に、プロテスタントの洗礼を受けました。金の保証人となったことで、家や店を手放し、北海道小樽に移住します。一九二一年、キクも富山師範高等学校家族を支えるため小樽区立高等女学校に転任。そこで小樽カトリック教会のフェルゴット神父と出会い、熱心な指導を受けカトリック信者になりました。副校長鳩山春子の勧めで同校のキクが在学中、結核で入院していた次兄からキリスト教徒であることを打ち明けられ、死の淵にいながら、「神の御心のま間もなくして、父が他人の借ある時、羊蹄山(蝦夷富士)にすすけっかくけいみこころようていざんつかちゅうぎさんぼう登ってその壮大さに感動したキクは、「一滴の雫が大きな流れとなることを信じ、この地で人々のために働こう」と決意。一九二七年、札幌マリア院の修道女となり、札幌藤高等女学校教諭として主に宗教や倫理を教えながらクサベラ・レーメ校長の側に仕え、ドイツとの架け橋として貴重な存在となっていきました。戦時中、キリスト系の学校として疑惑がかけられた時、「自分には明治維新で忠義を貫いた祖父の血が流れている」と熱弁して軍部の参謀をうならせ、教育優先の立場を取りつつ、生徒と共に軍事作業にも携わりました。戦後、女子の教育の重要性を考えていたキクは、北海道になかった女子専門学校の設立に奔走します。一九四七年3月、札幌藤女子専門学校の認可がおり、りんりそばつらぬ(監修富山近代史研究会 その後も教育の拡充や4年制女子大学の設立に尽力。一九六一年4月、藤女子大学を開学し、宗教学と倫理学を教えつつ、学長として学校運営の舵取りをしながら、教育改革や学校設置に取り組みました。 一九六九年、私学女子教育に大きく貢献した功績により、第1回北海道開発功労賞を受賞。「私には愛があるだけ。それも神様の教えを守ることだけです。だから私自身はなんの力もありません。(中略)私はご覧のとおりひと皮むけばただのおばあさん。栄誉はすべて神にお返しします」と語りました。 数々の表彰、勲章を受け、平成8年(一九九六)、百一歳の天寿を全うしたキク。その愛と奉仕の精神は広く受け継がれ、女子教育への志を高くする人も少なくありません。かじ藤城純子)     えぞ    ぎわくか じ せんくしゃ まきの牧野キクが教員として勤務した藤高等女学校校舎(北海道札幌市)牧野キク先生。写真提供 : 学校法人 藤学園シリーズ/隠れた郷土の先人・偉人28

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