どうして、文系と理系に分けられるのか?
その理由は諸説あるが、是非を問われると明確な答えは見当たらない。
私の場合、超がつくほどの“文系人間”。学生時代をふり返ってもそれは明らかだ。
・マイナスの数字にマイナスを数字をかければ、もっとマイナスになるはずなのに、
なぜプラスになるのかわからない。
・√4や√9は納得できるけど、√3や√10がどうして存在するのかわからない。
・電子は-から+方向へ動くのに、どうして電流が+から-に流れるというのかわからない。
公式や定理にあてはめて問題を解けばいいのに、その公式や定理が腑に落ちないとなんだか
釈然としなかった。
最近、あるマンガを読んでいて、「やっぱり、そうか!」と思わずつぶやいてしまった。
女医になった同級生が、優等生じゃなかった中学時代をふり返り、数学についていけなかった
理由を話すシーン。
「中学に入ると負の数を習うでしょう。-1×-1=+1 てやつ。私、あれが理解できなくてね。
わかってないのに公式を丸暗記して問題を解くのは空虚じゃないかって・・・虚しく感じたの。
でも、そんなわけで中学1年の数学だけでなく、広く数学全体を知ればのみこめるかなと思って
図書館に通って・・・」
全く同感だ。文系と理系の分かれ道っていうのは、この辺にあるような気がする。
私の数学嫌いは高校生になっても変わらず、数学の授業は成績ごとに分けられた一番下のクラス。
でも、担当していただいた今村先生の授業は面白くて、今でも覚えている。
毎回、黒板に問題を一つ書いて、
「今日はこの問題だけやります。その代わり、全員がわかるまでやります。
これがわかれば世界中どこへ行っても大丈夫。なぜなら数学は、世界共通だからです!」
と言って、生徒一人ひとりに合わせ、丁寧に教えてくださる今村先生のおかげで、少しは数学に
前向きになれた。
エジソンは小さい頃、「1+1=1」だと答えたという話がある。その答えの理由は、
「同じもの(1)に同じもの(1)を加えても変わらないから」。全くその通りである。
「このはし、わたるべからず」と貼り紙された橋の真ん中を、どうどうと歩いて渡った一休さんの
とんち話のように、同じ問題でも解釈の仕方で答えは何通りも出てくる。
しかし、数学は答えが一つでなければ具合が悪く、「世界共通」のルールに従わなければならない。
学問は先人が決めたことや慣習の上に成り立っており、道理に合わないことも出てくる。
例えば「負けず嫌い」という言葉は、「負ける」を打ち消しておきながら、「嫌い」とさらに
否定している。文字通りに解釈すれば、「勝つことが嫌い」なのに、意味は全く逆になる。
日本語を学習している外国人の中には、「WHY?」と叫ぶ人もきっといるだろう。
“負けず嫌い”な人は、わからないことにぶつかるとそこに捉われ、先に進むことができなくなる。
それが私だ。
小学校3年生の頃、ある授業で生徒全員が立たされ、先生の出す問題に正解できた人から
座っていくというのがあった。そして最後まで立っていたのが自分で、クラスで笑いものに
なったことを覚えている。
実は答えはわかっていたし、周りで答えをささやいてくれる友達もいて、いつでも手を挙げる
ことはできたのだが、理解せずに丸覚えしただけの答えを言うのがどうしても嫌で、結局、
自分一人だけ座ることができなかった苦い思い出だ。
文系とか理系とか、都合よく分けるのではなく、数学的なものの捉え方、文学的な解釈の仕方
などを先に理解していたら、学ぶ心構えができ、小さなつまづきやこだわりを気にしないですむ。
自分を小さな枠にはめ込むこともなく、可能性が広がる気がする。